7月30日で450年【オリジナル御城印】織田・徳川 vs 浅井・朝倉《姉川の戦い》【死闘の地】
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※本品は個人が製作のもので、城および城跡の管理者が発行する公的な入場等の証明書となるものではありません。
公的な御城印が無い城のものを自主制作しております。
一般には販売、配布はしておりません。
個人の登城記念としてご利用ください。
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7月30日は織田・徳川の連合軍と浅井・朝倉の連合軍が近江の国・姉川付近での死闘を繰り広げた元亀元年(1570年)からちょうど450年にあたります。
それを記念してオリジナルのものを制作しました。
姉川の戦いでは多数の死傷者が出て辺りは血の海『血原』という地名の由来となりました。
徳川四天王の一角・本多忠勝と朝倉軍の豪傑・真柄十郎左衛門との一騎討ちを描いた浮世絵を背景に、左に織田、徳川、右手に浅井、朝倉の家紋を配したデザインにしています。
【姉川の戦い】概要
「姉川の戦い」は、1570年(永禄13年/元亀元年)に、北近江(現在の滋賀県長浜市)の姉川を舞台として起きた戦いです。天下統一を目指す織田信長・徳川家康の連合軍と、浅井長政・朝倉義景の連合軍が姉川を挟んで対決。激戦の末、織田・徳川方が勝利をおさめました。
『姉川の戦い』は、その後の信長の天下布武の流れを決定づける激突と言え、その後の一乗谷攻め(朝倉滅亡)小谷城の戦い(浅井滅亡)へと続いて行きます。
合戦後、織田信長は本陣を横山城や虎御前山城におき浅井氏攻撃を続けましたが、最終的に浅井氏が滅亡したのは、3年後の天正元年(1573)9月1日。