松平雪江 まつだいら せっこう
水戸藩士松平信順の三男として生まれる/立原杏所に学び、父雪山に師事、南宗画を主に研究/水戸藩次いで茨城県に出仕し製図係として地図の作製に携わり、1886年に職を辞し画業に専念/その間1885年『茨城 常磐公園攬勝圖誌』を編集/1882年第1回内国絵画共進会で「玄徳渉壇渓ノ図」等を出品/1884年第2回内国絵画共進会で「常陸国四度瀑布」等で褒状/1914年死去
立原杏所 たちはら きょうしょ
1786年1月25日 ~ 1840年6月19日
江戸時代中期から後期にかけての武士、南画家。
水戸藩7代藩主・徳川治紀、8代・藩主斉脩、9代藩主・斉昭の3代に仕える。本姓は平氏。諱は任。字は子遠。甚太郎のち任太郎とも。東軒、玉琤舎、香案小吏、杏所と号した。杏所の号は、生まれた横竹隅の庭内に杏樹があり、そこから取ったとも言われる。
商品:肉筆【青緑山水図/立原杏所】【鑑定/松平雪江】絹本 掛軸
表具:201㎝×87㎝
本紙:147㎝×71㎝
管理番号:S 782-5