NO459 益子焼 青頸徳利 徳利  幕末~明治
8,000円 合人民币: 412.69
目立った傷や汚れなし
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宮城県
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益子焼の青頸徳利です。こちらの徳利は目立つキズも無く状態は良いですが口元に小さな窯キズと見られる箇所があります(約2㎜程)また底の白い部分は焼成由来の釉薬や土の痕跡でありキズではありません。
目立つキズではありませんが口元に焼成由来と見られる㎜単位の小さなキズがありますので完璧を求める方や神経質な方はご遠慮ください。100年以上は確実に経過している徳利ですので古い物にご理解のある方宜しくお願い致します。

笠間にしては福島の要素(口部分)が入っている為不思議に思い調べた所、古い益子焼の徳利である事が分かりました

益子焼について↓
益子の窯は嘉永六年に笠間から益子の大塚平兵衛方へ婿養子としてきた啓三郎によって開かれたといわれています。一方これより先、菊池清蔵なる人物がが半陶半農の形態ですでに益子でやきものを焼いていたという記録もありますが、一般的には啓三郎が陶祖となっています。啓三郎は御用窯となるや笠間時代の同僚田中長平を招き、窯業の充実を図ります、笠間は信楽の流れをくみ、長平がいた宍戸(友部町)は相馬系なので、益子は開窯当初から信楽・相馬・ 笠間の影響を受けていたといえます。そのため古い益子焼はそれぞれの特徴が融合したような見た目をしています。
安政二年には三田称平が郡奉行として益子に着任し、窯業奨励のために金を貸し出すなどして振興を図ったので仕事は順調に発展します。明治四年に廃藩置県で益子は民窯として独自で歩むことになり、現在にいたっています。大正八年には陶芸家であり、民芸運動の中心的存在でもあった浜田庄司が益子に定住し仕事を始めた事がきっかけとなり濱田以降からはその影響を多大に受けた益子焼が多く見られるようになりました。開窯時には甕・擂鉢・土瓶といった日用雑器を焼いていましたが民芸ブームの影響もあって、現在ではほとんどすべての窯が食器・飾皿・花瓶などを作るようになりました。

大きさ→高さ約27,5cm
尚撮影に使用した図録の写真は商品には含まれませんので予めご了承ください。

口元の小さな窯キズ以外は目立つキズはありませんでしたので「目立つキズ等無し」としております。

即購入された方は納得の上購入されたと認識しますので購入後に「思っていたのと違う」等無きようしっかり写真を見てからご購入下さい。

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