明治21年佐賀県藤津郡嬉野にて名工 富永源六は開窯しました。
安政6年(1859年)内野山の窯焼富永清兵衛の長男として生まれ、大正9年(1920年)にこの世を後にしました。
明治20年(1887年)肥前磁器は海外に輸出されていましたが、粗製濫造に流れ評判が悪くなり、衰微していくなかで、源六はこの改良を企図し同業組合の成立に奔走しました。各地の輸出品製造地を視察して研究を重ね、釉下彩独特の磁器を出すに至り、世の中へ源六焼と称されています。
朝鮮半島向けの製品や、海外への美術品、国内の日用食器など手掛け、その製品はどれも評価されています。
以下、富永源六について記します。
明治後半から大正時代に発展し,
セントルイス万国博覧会万博 (1904) で銀メダルを受賞。
日英博覧会 (1910) で銀メダル。
パナマ太平洋万国博覧会 (1915) でメダル。
1920 (大正9年)年2月9日没す。
本作品の銘にト3マークに源六製と記してあることから、明治末~大正9年における製品であったことがわかります。
大日本源六製、源六製など初期にあった銘は時代と共に変わり、中期にはト3マークに源六製と書かれます。後期には源六製がなくなりト3マークのみとなります。
このト3マークは(富永→富→トミ)です。
染付の濃淡で形をとり上絵による金彩で梅枝と梅をさらりと描いておりますが、その線1本1本の迷いのない運筆、濃の描き方より輪郭線を描かずに絵付しています。枝葉において輪郭線が見られなく、濃淡の使い分けもみられています。
特に形状の底部分を高さをだしています。これ現代のビアカップの参考にされている形状です。
日用食器ではありますが、源六焼はなかなか市場に出ないものです。
サイズは写真の通りです。
金彩のスレなどはありますが、割れや欠けはない状態です。
希少で、滅多に入手が出来ない富永源六の製品です。
よろしくお願い致します。
アイテム 種類···小鉢